終戦間近の1945年8月2日未明、東京都八王子市に米軍爆撃機B29が多数襲来し、2時間近く、焼夷(しょうい)弾を落とし続けた。約450人が命を奪われた「八王子空襲」から80年。旧市街地の大部分が焼き尽くされたなか、命をつないだ村野圭市さん(93)=同市明神町=は、2人に減った語り部の1人として、体験を語り続けている。
空襲に遭ったのは13歳、八王子工業学校1年生の時だった。
前日に空襲予告ビラがまかれ、警戒警報も出ていた。地域の防火要員だった父を自宅に残し、母と1歳と3歳の弟と4人で、郊外の知人宅へ向かった。だが、道中で「きょうは(爆撃機は)来ない」という軍の情報を耳にし、自宅に引き返した。
寝床に就いた頃、B29の轟音(ごうおん)が聞こえてきた。
「来たぞ、防空壕(ごう)に入れ!」
父が叫び、浴衣のまま急いで逃げ込んだ。
火の手が迫り、このままでは焼け死んでしまう、と思ったとき、防空壕の入り口をふさいでいた燃える焼夷弾を、父が蹴り飛ばした。
「逃げろ!」
父に促されて外に出ると、火の海だった。
村野さんは上の弟を背負い、母は下の弟を抱えて、近くの浅川に向かった。火を噴きながら転がる焼夷(しょうい)弾をよけて、必死に駆け抜けた。げたが脱げかけ、いつの間にか母を見失った。
1キロほど走って堤防沿いの桑畑に逃げ込み、弟と2人で不安な一夜を過ごした。
「目に見えるようになってしまったら…」
夜が明け、自宅に戻る途中の…